私たちの過ごした4日間は

「私」役を演じるにあたって、勝手に決めたことが一つある。
キスシーンで女性が一方的に押し倒され、流れでいいようにされてしまったようには見えないようにすることだ。

ト書きのキスは二文字だったが、ここで押し負けた感じにだけは見せたくなく、がっつりやると勝手に誓った。相手の田中爽一郎さんにはもちろん同意をもらった。


シーンの身体の動かし方としては相手を見つめる、キスをする、床に押し倒されるようにして強めのキスをし、ぽつりと一言を呟くというもので、

気持ちとしては結構様々なことがない混ぜになっているような、いわゆる「エモい」シーンだった。

8年交際して別れた後の元恋人と、しばらく会わなかった後にするキスで、私の身体は初めてだったのに役の人が急にボソッと「あー、こんな感じだったわー」と言った。

もちろん頭の中で。

こんな感じだったんだっけ、そうだったんだ。それにしても、身体が近い。


キスシーンはやればやるほど喉が渇いて疲れていく。

定期的な換気があっても熱気が篭り、500mlの水をがぶ飲みしても頭がぼんやりした。

監督からいくつかの指示を受けて、またカメラが回る。

目を合わせて、腹筋をゆっくり使いながら、背中から床に倒れ込む。相手の肩にかけていた右手をミュートしながら床に位置に置いて左手は相手の後頭部を撫でるように動かす、ポツリとセリフをつぶやく。NGが出たらもう一回。引きで撮ってOKが出たら寄りで撮る。もう一回。どんどんスポーティな気持ちになっていく。


またカメラが回り、スタートと声がかかり、

脚本を身体であらわしていく間にふと身体から魂がログアウトし、

わたしは身体を持つ幽霊になった。

身体(ハード)を使って動かしている役(ソフト)が感じていることと、自分自身(OS)で考えていることの間にスーッとメスが入ったように分かれてしまって、

今ここにいるのに、ここに居るのは私ではないということを、ぱかっと見てしまった。

自分の身体が何よりも遠かった。

終わった後はただただ不思議で、なんだか身体が軽くなったなあと思った。


OKが出て、ふうと安心し、心身ともにすごく疲れて、俳優という仕事はほんとうに、ものすごいんだなあと思ってしまった。

俳優をやっている人の身体は生まれた時から本人に紐づいているけれど、そのソフト面をゴゴっと入れ替えてしまう。

帰りの電車の中で、あれは動物王国のムツゴロウさんと大きな犬が合体してじゃれあっているようだったなあと思った。


身体と自分自身がどこか離れてしまっても、カメラで見れば身体と私は普段どおりくっ付いているように見えるのは不思議だ。

なんだか、身体はあくまで外側のものであるという感じがして、自分自身の触覚と役が感じることの温度差で混乱していた。

キスシーンはとにかく身体が近い。

いわゆる役者魂と呼ばれるものの中に俳優自身の客観的な理性が含まれているとしたら、あの時は、体の近さに役者魂が「おおお」と言ってうろたえた瞬間でもあった。


田中さんに「初めてのキスシーンって緊張しませんでした?」と聞いたら、

「僕は1日に2人の女性とのキスシーンがあったので、めちゃくちゃ混乱しました」と言っていた。

それはそうだよなあ、と思った。


私ではあるが私でない、こんなに大きく心と身体が離れてしまうことは、普段の生活には無い。

キスシーンで触れあっているのはたしかに俳優同士の唇だが、

その演技がカメラで撮られ、編集され、上映されるということは社会と触れ合うことでもある。


「初めてのキスシーン」についての色々は、たいていインタビューを経て言葉や文字にされるけれど、自発的にベラベラ話す俳優の姿が頭にぱっと浮かんでこない。

もしかすると、かっこ悪いからかもしれない。

演技は受け手がどう感じたかということで完結するものというか、自発的に色々なことを説明するタイプの表現ではないような気がしている。

自分の演技について事細かに話すって、演技を通して相手に意図が伝わっていないとか、やったことが自己満足や内輪での満足で終わっているとかの表明になってしまうのではないか。

私はその辺りのことにきちんと触れてこなかった不勉強さがかなりある。

なんにせよ、言い訳する俳優はかっこ悪い。

しかし、私はすでにかっこ悪いところがたくさんあるので、もうこれを読まれたところで大きな問題はないはずだ、ないといいなあ。


とにかく、私は初めての恋愛ものの作品で「純猥談」に出てみようと思った理由を言葉にしておきたかったのだ。

私は恋愛映画にしたって、女性が一方的にやり込められてしまうような物語の再生産には、どんな形であれ加担したくない。

性愛表象のあるコンテンツに触れようとすると、というか性愛表象に限らず恋愛が描かれた物語に触れるとき、ふと気がつくと女性が「見られる側・ジャッジを受ける側」に固定されるようなものに誘導されてしまうのがいやだ。


事実として、「女子力」的なファッキンものさしでジャッジされたり、嫌だという言葉をそのままの意味で受け取ってもらえないことなど、

やわらかく書いたとしても私は「普通に」憂き目に遭っている。

そしてこれは聞く気のない人に話してもたいていはピンとこないことである。

女性に生まれたことがむかつくのではない、女性として生きる人が「女性」ということによって、社会によって色々と面倒なことを負わせられるのがマジで無理なだけなのだ。


性愛にまつわる表現や作品ではキスやセックスだけが切り取られ、大きな価値が付けられていることがある。これはこれとしてある。

でも個人的には、そうじゃない方を選びたい。

商品的な価値のために切り取られ、過剰に縁取られたエロだけでなく、人間らしさの延長線上にあるような性愛を周りに置いておきたいし、性愛のコンテンツに触れたいと思ったときにそういうものの方がアクセスしやすい社会になったらいいのにと思っている。


だから、私が性愛やエロに関わることがあるなら、絶対に、人間の関係性からキスやセックスだけを切り離さない、生活と性愛が延長線上に並んでいるものがいいと思っていた。

純猥談に寄せられた文章は、友達にもすぐには話せないような、きっと鍵付きのアカウントや秘密のブログにポツリとつぶやかれるような体温のある性愛の物語だ。

今回、私が参加させてもらった『私たちの過ごした8年間は何だったんだろうね』の原作では、ある女性が過ごした大切な時間のことが書いてある。

この原作がとても素敵だ。淡々とした筆致の一行ずつに気持ちが詰まっていて、目でなぞるだけで悲しさの傷口が開いてくるようだし、同時にうっとりもしてしまう。

こんなに気持ちのこもった文章を書く人の役を、やってみたいと思った。

やってみたら、ものすごく大変だったけど、めっちゃ面白かった。


人生何事も経験ですよね。

原作者のはるさんにまで、届きますように。


追記&私信

昨日の先行上映会で、なんと原作者のはるさんにご挨拶ができました。

書いてくださってありがとうございました。

作品と演技を喜んでもらえて本当に嬉しかったです。

YPさん、松本窓さん、田中さん、teteさん、ヤンスさん、ポインティさんをはじめ

純猥談チームの皆さまには大変お世話になり、ありがとうございました。

なお、この文章はごく個人的な感想につき、この文章の考え方やスタンスなどは純猥談公式見解ではありません。公開に際しては許可をいただいております。

みんな、この冬をあったかく過ごせますように。 

石山拝

電線礼讃

石山蓮華 電線愛好家・文筆家・俳優・ラジオパーソナリティ お仕事のご相談はdensenraisan@gmail.comまでお気軽にご連絡ください。 頂いた内容は、マネジメント担当者と共有させていただく場合がございます。