【エッセイ】親知らず跡地より

親知らずの最後の一本を、先週やっと抜いた。

その歯は根っこが釣り針のようにグッと曲がっていたので、ばきばきに砕いたり、ぐいぐい力をかけたりして抜いてもらった。これまでの三本をスポンと抜いた歯科医が、口に手を突っ込みながら「これは難しいやつだな…」と何度か呟いただけあってちょっと時間がかかった。

その日の夜は、まだ顎ごと掴まれているような感覚があった。口の奥に一艘の船があって、ゴトンゴトンと波に揺れ、私の顎もガクガクしている。0時前くらいにはベッドに入ったはずだけれど、「頭の中が歯のことでいっぱいだ…」と思いながら目を閉じて、全然眠れず、これも痛みなんじゃないか、ということは痛み止めを飲めば眠れるかもしれないと気づいたのが朝方の四時半頃だった。

もらった痛み止めを飲んだらすっと眠れた。

今、親知らずの跡地にはミッフィーの両親の口みたいな形の縫い目が残っている。

誰からも頼まれていない日記を書くときは、キーボードの上を指がとことこと走る。

考えるともなしに考えながら書き、走るのに飽きたらそこでおしまいだ。土手の上を走る人より気楽で、皇居の周りを走る人たちよりも一人ぼっちで、いいもんだなと思う。


6月になった。今日寝て、明日寝て、起きたら本の発売日。

このあいだ、出来上がった本と初めて顔を合わせた。初めて触る本なのにどのページにも既視感があって、本当に私が書いたものが本になったのだなと思って涙がこみ上げてきた。でも、カメラの回っているときに(晶文社youtube動画の収録中だった)泣いたら、なんかやりすぎな感じがするよなと思って涙を引っ込めた。本当に嬉しい。全然嬉しい。

そして同時にめちゃくちゃこわい。

書いた本が誰に、どんなふうに読まれるかも、そもそも人に読んでもらえるかどうかもわからない。どう解釈するかは読み手に委ねられるところだが、まずページを開いてもらえないとどうもこうもない。ウー。


私は普段からわりと、友達には色んなことをあっけらかんと話すのが好きだ。ただ、家族や仕事相手にはそこそこ自制して話している。誰にでも同じように、なんでも正直に話すことがベストとは限らない。

この本では、特に後半では、最近考えていることをあけすけにあっけらかんと書いた。怒っている話も多いけれど、それはここ数年の間に読んだ本を通して、自分の中でモヤモヤしたことが「怒ってもいいこと」だと知ったからだ。たとえば、女子力という言葉でいじられることへの困惑とか、体毛の処理へのプレッシャーとか。

本を作ってみて、私が書きたいと思うようなことは、すでにいい文章で書かれていることばかりだというのを知った。考えを整理するためなら、やみくもに書くよりもいい本を読む方がいい。ただ自分の頭で考えて書くのは私にとって大切だし、言いたいことは対面よりも書いた方がちゃんと伝えられるような気もする。この大切さが、他の誰かにとってもいいものになるだろうか、どうなんだろう、とも思っている。不安だ。

康本雅子さんのダンスの動画を観ていて、エッセイを書くように踊っているように見えるというか、その場で生きている思考が今どんな軌跡を描いているのか辿れる感じがして面白いなあと思った。何が起こっても自分の身体で全て打ち返せるのが超かっこいい。

私には、自分だけの言葉があるかどうかは怪しいなと、常々思っている。ただ、それを探すためには他人の書いた、いい言葉に触れ続けるしかない。何かあったときに、自分の言葉で打ち返せるよう、読み書きしている。のかなあ。


一週間前、親知らずを抜く前はすごく憂鬱だった。抜いてもらっている間も辛かったけれど「これで良くなる」と思って、どうにか耐えていたら終わった。

今、親知らず跡地はもうほとんど痛くない。

口を大きく縦に開けると少し違和感があるけれど肉も野菜も食べられそうだ。

抜き終えれば勝手に治っていく。今日も私はめちゃくちゃ若い。


『犬もどき読書日記』は6月3日発売です。ぜひ読んでください!


電線礼讃

石山蓮華 電線愛好家・文筆家・俳優 お仕事のご相談はdensenraisan@gmail.comまでお気軽にご連絡ください。 頂いた内容は、Jungle.inc 担当者と共有させていただく場合がございます。